ソクラテスというと当然のことながら、「哲学」というジャンルに属するものと考えるのが常識だ。
古代の賢人あるいは聖人として、ブッダやキリストとならべて挙げられることの多いソクラテスだが、奇妙に感じた事はないだろうか?
明らかに宗教ジャンルの人物であるブッダやキリスト、孔子にくらべ、なぜひとりだけ哲学の偉人なんだ、と。
四聖人とかいって、なぜだか一人だけ哲学者のソクラテス、少しばかり浮いているというと言いすぎかもしれないが、なぜ一人だけ、「哲学」の人という事になっているのか?
こういった素朴な疑問を抱いた事のある人には、ぜひこの本をお勧めする。
この本は、そもそもにおいてソクラテスは宗教的な存在であったのが、後世の人間が脱色し、非宗教的な人間にしてしまった、と主張しているのだから。

ではなぜ、非宗教的存在にする必要があったのか、著者によればそれはキリスト教の「都合」であるという。
キリスト教という絶対的な宗教は、対等の存在を認めることはない、ソクラテスが宗教的存在だと都合が悪いわけだ。
かといって、邪神としておとしめるのは、その「思想」はあまりに惜しい。
ソクラテスをキリスト教が取り込むに当たって、ソクラテス像を歪曲する必要があった、そしてそれは、当然のことながら、キリスト教にとって都合のいいものになる。
そういった歪曲された姿のソクラテスこそが、現在我々のイメージする哲学者ソクラテスである、と。

著者は、ソクラテスの隠れた面、我々に知られていない、宗教的なソクラテスを読者に提出する。
しかし、その姿勢は非常に慎重である。
もうちょっと大胆に攻めてもいいんじゃないの?とも思うが、この慎重さは著者に対する信頼感につながるし、個人的にはむしろ好印象だった。
大胆な事を主張しているからこそ、なるたけ細心に慎重に、というのが著者のスタンスらしい。
なので、テーマがあまりにも大胆なのでいまいち食指が動かないという人もいるかもしれないが、なんかとっぴな事をいって人を驚かせようという感じとは程遠く、むしろ誠実ささえ感じるので、とりあえず興味のある人は読んで見て、という感じだ。


自分は結構前に読んで、今回は再読だったんだけど、普通に面白かった。
前読んだときは印象に残らなかったけど、今回読んだときは、中盤におけるテミス神に関する考察が結構面白くて印象に残った。
まあ、前に読んだときは、神話に対してあんまり興味もなく知識もなかったからかな…、テミス神に関する考察があることさえ忘れていたぞ。