タイトルからすると、どんなふうな読み方をすれば文学作品を楽しめるか?、というよくある手引書に見える。
が、しかし、内実は、文学の読み方を教授するという内容ではなくて、文学とは何か、あるいは、文学が人々に与えてきた錯覚とは何か、という感じの内容であり、タイトルと内容にズレがある。
なので、手引書を読みたいのなら回れ右することをおすすめする。
この本は、文学作品を引用しながら鑑賞のポイントを抑える、みたいな感じの本ではないので。

いきなり正反対のことをいうようだが、手引書じゃないんならや~めたと思ったそこのあなたは、少しでいいからこの本の内容に耳を傾けても良いと思う。
確かにこの作品は鑑賞の手引きではないが、鑑賞の手引きの手引きかもしれないからだ。
どういうことか。
作品を享受する場合、ある心構えというか、ある種のお約束を踏まえて、それを受け取るというのは、どんなジャンルのどんな作品でもそうだろう。
やや抽象的な言い方になってしまったが、これはこういう事だ。
例えばミステリというジャンルは、あらかじめ謎が提示され、それが最後には解かれてスッキリする、そういうものである。
ミステリとはそういうものだという心構えの元に、読者はその本を読み、楽しむ。
これはお約束の共有というか、幻想を共有するといえばいいのか…、要するにそういったお約束という大地の上に立ってそのジャンルは成り立っているし、どんなジャンルも基本的にはそうだろう、ということだ。
著者は、このことをたった一言錯覚という言葉で表現している。
では、文学、あるいは純文学といわれるようなジャンルにおける、錯覚とはなんだろうか?

と、こんなふうにわざわざ煽らなくても、本のカバーの紹介文に堂々と書いてあったりする、曰く「文学は現実を描ける」「文学は人間を描ける」と。
こういった言説こそ著者に言わせれば文学の錯覚である、と。
幻想、物語、お約束、言い方は何でもいいが、こういったものはたいていの場合、明示されているか、あるいは自明のものである。
このジャンルはそういうもの、あのジャンルはこうして楽しむもの。
いわゆる「文学」が厄介なのは、そういったお約束・幻想が、ないことになっているという所だ。
現実を描いている・人間を描いているという言い方は、そういう事だろう。
こういった透明さ、どこにもお約束はないですよおという態度こそ、著者に言わせればただの錯覚に過ぎないという事になる。
その、錯覚に過ぎないという事を、著者は大変わかりやすく叙述してくれる。
論旨はわかりやすく論理的で、最初に現代を描いてから、なぜこういった錯覚は生まれたのかという問題意識のもとに明治から語り始めるという構成もよい。
文章は平明でわかりやすく、ほとんど専門用語がでてこないので、すいすい読みすすめる事ができる。
そうして最後に辿り着く結論は、実はとても平凡で当たり前の事だったりする、しかし、物語を語る上ではとても大切なものであり、しごくまっとうな結論ではないか。
平凡な結論だがしかし、それは非常に説得力を持っており、やっぱそうだよなと深く共感した。
文学論と言うと難しそうなイメージが強いかもしれないが、平明な言葉で当たり前の事実を説得力を持って語る本書は大変読みやすく、決して退屈ではないので、普段こういった本に興味のない人にもお勧めしたい。



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