辻邦生の背教者ユリアヌスはいつか読もうと思っている歴史小説のひとつなのだけれど、この著者は若い頃にそれを読んで大きい感銘を受けこの研究の道に踏み出した、という人らしい。
いつか読む予定の辻邦生作品の予習で読んでみたというのもあるけれど、それ以上に興味深いと思っていたのは、キリスト教が国教化した後の時代にもかかわらずわざわざ異教を復活したという、空気の読めなさというか、何をやりたいのだこいつは感だ。
一言でいってしまえば反動という事になるだろうし、わざわざ歴史の針を逆に進めるようないまいち建設的とは言えないイメージを持っていて、けれどもしかし一方では、あえてキリスト教にノーを突きつけるその姿勢にはちょっとだけ萌えるものもあったりする。
まあ、たいした知識もないし、そもそもキリスト教を国教化した皇帝の名前も知らないくらいで、さして知識があるとはいえない。だから、要するにイメージといえるようなものもなく、ただ漠然とした興味、街中で見かけたちょっと変わった人に対して、この人はどんな人なんだろうという、その程度のものしか持っていないといえばいえる。

さて、この本の副題には『逸脱のローマ皇帝』とある。
著者はユリアヌスをローマ皇帝のスタンダードから逸脱しまくった存在として描く。
ユリアヌスは宗教的思想的側面から光を当てられることが多いらしいが、この本はあえて彼の統治者としての側面から光を当てていくと著者は述べている。
背教者としてのユリアヌスではなく、皇帝としてのユリアヌス、がこの本の眼目らしい。
おかげで、ユリアヌス初心者の自分でもサクサク読み進めることのできる手軽でコンパクトな良質な伝記に仕上がっていると思う。
宗教的側面に片寄ることなく、生い立ちから死まで、皇帝としての軌跡を描く事に傾注しており、大変読みやすい、生涯が短いからというのもあるが。

この本を読んで持ったユリアヌスに対する印象は、実務能力を持ってしまっている哲学青年、という感じだ。
実務能力のさっぱりない哲学好きの引きこもりだったならば、むしろその方が長生きできて、そこそこ幸せに暮らすことが出来たんじゃなかろうか、という気がする。
また、野心家であると同時に理想家でもあって、哲学的な生き方を民衆に強要しようとするところなんかは、何だかんだ言ってもやっぱり哲学好きの人間なんだな、と。ホントに優秀な政治家ならばそんなアホな事はしないだろうになぁ、と、思ってしまった。
まあそういうところがお茶目というか何というかこの人物の魅力でもありまた、悲劇性を喚起する所以でもあるのだろう。

『背教者ユリアヌス』の予習のつもりで読んだけど、既成のユリアヌス像、特に辻邦生的なユリアヌスに対して少しばかり異を唱えるというスタンスなので、むしろ『背教者ユリアヌス』を読んでからのほうが楽しめたんじゃないか、という気がする。読む順番間違ったかな?
といっても薄っぺらい本で手軽に読めるので、『背教者ユリアヌス』を読了したあとにもう1回読んでみようかな、と思っている。その時はどんな感想を抱くのか、そして、自分の中のユリアヌス像がどんなイメージになっているかが、楽しみだ。

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