カラスっぽいブログ

感想置き場、基本ネタバレなし リンクフリー



教養という言葉を冠した本は数多く、教養を語った本もまた数多いだろう。
しかし、それらの本で語られているような「教養」は「教養」なんかじゃねぇと言う話。
これは別に著者が独特の俺定義を作り出しているとかそういう事ではなく、長い歴史の中で変質し捻じ曲がり、色々な夾雑物がつき、わかりにくくなった教養の姿を、もう一度洗いなおそうという試みだ。
「教養」の真の姿などというと大袈裟だが、「教養」の持つ真の意義はどこにあるかを著者は懸命に解き明かす。
著者に言わせれば「教養」とはとても小さなもので、それが大きく見えるのは、文学、人格、哲学などの、あかの他人が勝手に抱きついているからに過ぎないという。
そういったあかの他人たちを引き離し、あらわれた「教養」の真の姿はとても意外で虚をつかれるような姿だった。

その姿を一言でざっくり言ってしまうならば、それは自分らしさという事になる。
この説明は乱暴で著者は賛成しないかもしれないが、読者の一人としては、そういう感想を持った。
教養とは自分らしさである。
この自分らしさとは、個性という言葉とはちがう、少しだけズレがある
そのズレをうまく説明する事はできないが、個性というモノがなかなか直そうと思っても治す事のできないような、キャラにとっての属性のようなものとするなら、自分らしさとは、自分自身で探りながら、自分自身で少しずつ作り出してゆくものという感じだ。
この説明でわかってもらえただろうか。
個性的という言葉はあっても、自分らしさ的に当たる言葉はないという点が、この二つの概念の違いを説明していると思う。

自分らしさとは、一見すると簡単に得る事ができるようなものだが、意外にどうして難しいもので、そもそも自分にとって最もぴったりくる考え方・行動の型は何かという事を考えなければならず、しかも、その考え方・行動の型が自分自身に無理せずピッタリ合うものでなければならない。
これはまさに言うは易し行うは難しであり、おそらくは大部分の人間が、自分らしさを見つける旅の途上にあり、もしかすると、死ぬまで見つけることは出来ないかもしれない。
しかしそれでも、生きる上では、自分らしさを見つけることをやめることは出来ない、そんなものまどろっこしいから探さねぇよというのも、じつは一つの自分らしさだったりする。
自分らしさというのは、自分に身の丈の合った服のようなもので、だぶだふでもいけないし、ぴっちりしているのも息苦しい。
ぴっちりした服を着てこれが自分だ自分らしさだと思うときもあれば、だぶだぶの服を着て、これが自分だと思う時期もあるだろう。
要するに正解はなく、これで終わりというのもなく、採点してくれる人もいない。
何が正解かわからず、自分にとってもっともピッタリな服は何かというのも、一生探し続けなければならない。

だからといってこれは悲観的になる事もない、どうせ永遠に答は見つからないとなれば、逆に気は楽になるし無理をしようという気もなくなる。
自分らしさとは何かとは、色々な人やモノから教えられ、それは当然間違っていることもあれば正しい事もあり、そして正しいか間違っているかを判断するのも自分ともなれば、カオスの二乗という感じでどうにもこうにも仕様がないが、まあそういうもんかなとも思う。
生き続ける過程そのものが自分らしさを探る旅ならば、これは永遠に過程のままで完成を見ることはなく、自分らしさとは何かを分からずに、あるいは盛大に勘違いしたまま死んでゆく人もいるだろう、けれど、もともと正解はないとわかれば気も楽になるというもの。
ならば、慌てず騒がず、ほどほどに自分らしさを探しつつのんびり生きていけばよいのではないか?、まあそんなふうに思ったりするわけで、これが今の自分の結論だったりする。
そしてそれが、今の自分にとっての自分らしさであり、それなりに身の丈にあっているのではないかと思っている。


適切な解説
分裂した世界を統合する能力 清水真木『これが「教養」だ』



amazon

Kindle 



本書は、前に感想を書いた同じ著者の『文学の読み方』の応用編とでも言うべき内容なので、出来ればそちらを先に呼んでからこちらを読むことをお勧めする。
この本は確かにゲーム論であり、ドラクエ論でもあるが、前著『文学の読み方』で展開された、物語論あるいはエンタメ論とでもいうべきものを引き継いでおり、前著を読んでからのほうが読みやすいし頭に入りやすいだろうと思われる。




ドラクエが物語であることは間違いがない、しかし、文学と言うと首を捻る人も多かろう。
そもそもに置いてジャンルが違う、小説とゲームだ、一体どこが同じなのか、と。
著者が考える『文学』とは、そういったジャンルを指す名称ではなく、物語のひとつのあり方のようなニュアンスで使われていることが多いため、ここでもしつこく言わせてもらうならば、やはり『文学の読み方』を読んでおいたほうがよい。
といっても、めんどくさいし読みたくないという方もいるだろう、そういった人に説明すると、文学とは錯覚を描くものだというのが、大雑把に言えば著者の主張である。
この場合の錯覚というのは幻想と言い換えてもよいが、この作品はリアルであるという錯覚、あるいは人間が描かれているという錯覚、こういったものこそ文学が与える錯覚である、と。
「文学としての」というのは要するに、ドラクエはプレイヤーに対してどんな錯覚を与えてきたかということであり、ジャンルとしての「文学」にドラクエを取り込もうという事ではない。
その点、タイトルがミスリーディングを誘っているような気がしないでもないが、商業的にはこういった誤解されそうなタイトルのほうがよいという事だろう。

本書は年代順に、ドラクエがどんな変化・進化を辿ってきたかという事を社会の出来事とも絡めながら叙述する。
そしてここでも、『文学の読み方』でも大きく扱われた村上春樹が出てくるが、ドラクエとどんな風に絡むかは、読んでのお楽しみとしたほうがいいだろう。
タイトルに反し以外にまっとうというか常識的な内容で、奇抜なことは書いていないので安心して読み進めることができる。
それは逆に言えば刺激が少ないという事で、正直そこまですごく面白いと感じたわけではないが、決してつまらない本ではないし読む価値があると思う。
これから先、おそらく著者は「錯覚」というキーワードを手に色々な題材に取り組むのだろうが、どんな題材に取り組みのか楽しみだ。



amazon




タイトルからすると、どんなふうな読み方をすれば文学作品を楽しめるか?、というよくある手引書に見える。
が、しかし、内実は、文学の読み方を教授するという内容ではなくて、文学とは何か、あるいは、文学が人々に与えてきた錯覚とは何か、という感じの内容であり、タイトルと内容にズレがある。
なので、手引書を読みたいのなら回れ右することをおすすめする。
この本は、文学作品を引用しながら鑑賞のポイントを抑える、みたいな感じの本ではないので。

いきなり正反対のことをいうようだが、手引書じゃないんならや~めたと思ったそこのあなたは、少しでいいからこの本の内容に耳を傾けても良いと思う。
確かにこの作品は鑑賞の手引きではないが、鑑賞の手引きの手引きかもしれないからだ。
どういうことか。
作品を享受する場合、ある心構えというか、ある種のお約束を踏まえて、それを受け取るというのは、どんなジャンルのどんな作品でもそうだろう。
やや抽象的な言い方になってしまったが、これはこういう事だ。
例えばミステリというジャンルは、あらかじめ謎が提示され、それが最後には解かれてスッキリする、そういうものである。
ミステリとはそういうものだという心構えの元に、読者はその本を読み、楽しむ。
これはお約束の共有というか、幻想を共有するといえばいいのか…、要するにそういったお約束という大地の上に立ってそのジャンルは成り立っているし、どんなジャンルも基本的にはそうだろう、ということだ。
著者は、このことをたった一言錯覚という言葉で表現している。
では、文学、あるいは純文学といわれるようなジャンルにおける、錯覚とはなんだろうか?

と、こんなふうにわざわざ煽らなくても、本のカバーの紹介文に堂々と書いてあったりする、曰く「文学は現実を描ける」「文学は人間を描ける」と。
こういった言説こそ著者に言わせれば文学の錯覚である、と。
幻想、物語、お約束、言い方は何でもいいが、こういったものはたいていの場合、明示されているか、あるいは自明のものである。
このジャンルはそういうもの、あのジャンルはこうして楽しむもの。
いわゆる「文学」が厄介なのは、そういったお約束・幻想が、ないことになっているという所だ。
現実を描いている・人間を描いているという言い方は、そういう事だろう。
こういった透明さ、どこにもお約束はないですよおという態度こそ、著者に言わせればただの錯覚に過ぎないという事になる。
その、錯覚に過ぎないという事を、著者は大変わかりやすく叙述してくれる。
論旨はわかりやすく論理的で、最初に現代を描いてから、なぜこういった錯覚は生まれたのかという問題意識のもとに明治から語り始めるという構成もよい。
文章は平明でわかりやすく、ほとんど専門用語がでてこないので、すいすい読みすすめる事ができる。
そうして最後に辿り着く結論は、実はとても平凡で当たり前の事だったりする、しかし、物語を語る上ではとても大切なものであり、しごくまっとうな結論ではないか。
平凡な結論だがしかし、それは非常に説得力を持っており、やっぱそうだよなと深く共感した。
文学論と言うと難しそうなイメージが強いかもしれないが、平明な言葉で当たり前の事実を説得力を持って語る本書は大変読みやすく、決して退屈ではないので、普段こういった本に興味のない人にもお勧めしたい。



amazon



・前作との違いと、本作の個性

同じアイドルマスターシリーズとはいっても、前作とはアイドルに対するスポットの当て方に違いがあり、
印象としては、かなり違う作風の作品だなという印象を受けた。
もちろんパッと見は非常に似通った印象をもたらす。
絵柄からして非常に似ているし、素人の自分には似たような傾向の絵という感想しかわかない。
演出面においてもそれはいえる。
艶やかで華やかな、アイドルという存在を輝かしく描く演出は今作も健在で、
作中に歌が印象深く使われるし、わざわざ歌のタイトルが表示されるという心憎い演出もいつもどおり。
けれど、だ、何か根本的な部分で違いを感じないだろうか。
こういった、直感によって把握された感覚的なものをきちんと言語化するのは非常に難しく、
どうしても曖昧な説明になってしまいがちだが、書いてゆく中で考えがまとまり、その『感覚』を朧気ながらつかめるときもある。
だから、特にあてはなくとも、だらだらと書き続けてみよう、この作品とあの作品の違いについて。

例えば、前作にあって本作になかったもの、それはみんな一緒という家族感だ。
前作がチームの話であったのに比べ、この作品は、個人が寄り集まってチームを作っているという趣があり、
チームの絆というものはそこまで絶対的なものではない。
いや、絆というと語弊を生むだろうか、
他に適切な言葉が思い浮かばないため、絆のようなものという、曖昧な言葉遣いで許して欲しい。
これは例えるならば、戦隊ものとライダーの違いのようなものといえば伝わるかもれない。
戦隊モノがあくまでチームの話であり、チームという枠組みの中に個人が居るのに比べ、
ライダーは個人の物語であり、ときにチームを組み、ときに手を結ぶことはあれども、
そういった場合の「絆のようなもの」は、絶対的なものではなく、
それこそ時と場合によって、チームは崩壊したりメンバーが入れ替わったりする。
だから、龍騎のようなひとり一チームという極端な作品が出てくる余地もあるわけだ。
この比喩が適切かどうかあまり自信はないが、この作品がチームよりも個人に焦点を置いているという事が伝わればそれでいい。

じっさい作中では、彼女たち個人が、自分の進む道や自身の適性を探し求めるという描写があり、
それもそういった描写が目立つというレベルではなくて、物語の中心に据えられているといってもよいくらいだ。
そして、そこにいる個人が、自分で考えて自分で結論を出すという描写も負けず劣らず目につく。
そしてその結果が、色々な動揺を引き起こすわけだが、チームを絶対視しないこの作品においては、それは当然の帰結といってもよく、
個人の物語、つまりは「彼女」たちの物語と考えるならば、後半の展開は妥当であり、ごくごくまっとうな展開ではないか、とも思える。
つまり何が言いたいかというと、戦隊モノよりライダーが好きで、前作より本作のほうが好みだ、という事だ。



・アイドルとしての覚悟

また、もうひとつ気になったのは、彼女たちの覚悟のなさ、
いや、無いなどと言うと言い過ぎになるだろう、アイドルとしてやっていく覚悟が生半可に見える、と表現すればよいだろうか。
つまりは、彼女たちの良くも悪くも普通な部分が目についたという事だ。
普通の女の子が覚悟を決めてアイドルになり、いや、アイドルになろうとする覚悟を決めるという過程が、丁寧に描写されており、そこが印象に残った。
もしかしたら、人によってはまどろっこしく見えてしまうかもしれない。
さっさと覚悟を決めて、足を踏み出せと、イライラしながら視聴した人もいたのかもしれない。
しかし、だ。
考えて欲しい、このタイトルの意味を。
これは普通の女の子の物語、シンデレラたちの物語なのだから、こういった描写・展開は妥当でありこそすれ、決して非難されるようなものではないはずだ。
むしろ、もっともっと執拗に描いても良いと思ったくらいだ。
もっとも、そうなったらそうなったで、作品全体のトーンが暗めになり、アイドルの物語じゃねーぞこれ、という事になりかねないので、このくらいのシリアス度がちょうどいいのかもしれないが。





(ここから先、ちょっとだけネタバレ)

・灰かぶり

この、「覚悟」というテーマを一身に体現していたのは、説明するまでもなく卯月である。
彼女に対する最初の印象としては、出てくるキャラクターたちの中でもっとも非凡なキャラという感じだった。
たった一人になっても養成所を辞めず、トレーニングをして時を待つ、という根性といい、
基本的には全てを笑顔で受け入れる菩薩っぷりといい、主要キャラの中では、最も現実離れした超人キャラだなあ、などと思ったりしたものだ。
が、しかし、よりによってこのキャラクターが、ある意味ではもっとも凡庸で、そして平凡なだけに胸を突くような悩みを曝け出すというのは、意表をつかれた。
これはもう、スタッフさんに完全にしてやられたという、心地よい感じだけがある。
そして、彼女の悩みそのものも非常に共感しやすいものではなかったろうか。
少なくとも自分は、23話を見たときに胸をつかれるような思いをあじわった。

恐らくこれは誰しもが共通に持つ悩みというよりも、トゲのようなもので、それも抜こうと思っても抜く事のできないトゲなのだろう。
だからこれは、解決するというよりも、この先も付き合って生きていくということしかできないし、安易に解決に走ろうとすると、あまりよい結果にはならないのだろう。
だからこそ彼女の決意とその勇気には、賞賛を惜しまない。
自身の空っぽさを正直に曝け出し、自らの夢も描かず空白のまま、それでも、生きていく、アイドルになるために、あるいは、なろうとするために。
これは決して問題の解決がはかられたわけではなくて、そして、先送りにされたというわけでもなく、
大袈裟な言い方をすれば生きていく決意を固めたということだ。
アイドルになる、というよりも、なろうとする事、絶えずその過程に居続けること。
輝きたいという思い、その美しさそのものがアイドルの輝きそのものではないか、とこの作品は伝えようとしているように思える。



・星に願いを

「星」に何も書かない卯月が好き。
書かないというよりも書けないのだろう、しかし、そういった自分を正直に表に出す卯月が好きだ。
誤魔化したり、嘘をついたりせず、空っぽな自分を正直に表に出すということ、これはなかなか勇気のいることではないだろうか。
これは彼女の勇気というよりも真っ正直さと解釈したほうがよいかもしれないが。
もしかしたら彼女には、嘘をついたり誤魔化したりするという選択肢そのものが思い浮かばなかったという可能性さえある。
だとしたら、これはやはり主人公だなと言わざるを得ない。
もっとも非凡に見え、特別な存在に見えた彼女が、実はもっとも平凡で普通の悩みを抱えていた事を吐露するが、その真っ正直さ、心の真っ直ぐさはやはり非凡と言わざるを得ないし、特別な存在なのだなと思わせる。
やはり彼女はスポットライトを浴びて舞台の上で輝くべき存在だ、そう思う。

これは普通の少女が、アイドルになろうとするまでの物語。
やはり、この作品の主人公は卯月だ。
彼女は確かに普通の女の子、ただの灰かぶりかもしれないしかし、彼女は彼女自身の普通さを正直に吐露する事によってアイドルへの階段を登った。
いわば自分で自分に魔法をかけたのだ。
これは、普通の人間ができることではないし、やはり彼女は特別な存在なのだなと思う。


原作ゲームファンからの一理あるツッコミ
アイドルマスターシンデレラガールズ第23話感想/彼女には自身の空虚を語る資格があるか 

このページのトップヘ