カラスっぽいブログ

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アイドルアニメというよりも、アイドルと言う題材を扱って学園青春ドラマを描いたと言う感じか。
アイマスのアニメを見て、アニメで描かれるアイドルもよいものだなと思い、ほかのアイドルアニメも視聴してみようという事で、とりあえず人気があって知名度も高いこの作品を視聴してみた。
この作品、まず目につくのが、アイドルが学生をやっているわけではなく、学生がアイドルをやる、という点だ。
どういうことか、というと、この作品世界においては、スクールアイドルという、学生であると同時にアイドルであり、しかもどうやら非商業で仕事にしているわけでもなく、いわば趣味のようなものとしてアイドルをたしなむという、独特の概念が普通に成立しているらしく、アイドルがまだ学生なのではなく、学生がたまたまアイドルをやっているという感じなのだ。
したがってというか、当たり前なのだが、ヒロインたちは全員学生であり、学校内での描写も多く、いや多いどころかほとんどはそうであり、アイドルモノというよりも、学園青春ドラマにアイドルという要素を加味してみたという印象をもたらす。
従って、アイドルという職業を選び取った人間の悩みや悲しみそして喜びが描かれるというよりも、学生がアイドルという題材を選び取って、そしてそれに対して青春を燃焼させるという感じであり、アイドルという題材は例えば他のスポーツであっても代替可能なものに見える。

第1期という事もあり基本的には仲間が集まる描写が本編の大部分を占め、そして、彼女たちがチームとして形を成していくというのがこの作品の見所と言えるだろう。
この点、例えば、アイドルマスターとは対照的で印象深かった。
仲間が集まる、いや、集める過程そのものが物語になっており、しかも、彼女たちはそれぞれに個性的で厄介な性格の持ち主もおり一筋縄ではいかず、そういったヒロインをまるまる一話あるいは二話使っておとしてゆく、というのがこの作品の前半のノリであり、なかなか丁寧に描いているなという感じで、ゆったりした気分で視聴することができた。
ここら辺は結構好印象で、何よりも、キャラクターに対する描写の丁寧さというか、きちんと時間をかけて描写し、きちんと顔見世をするという親切さは良いと思った。
おかげで、登場人物が多すぎて、把握できないなんて事にはならず、九人という人数はやや多いかな?と思わないこともないが、意外に気にならない。
そういった丁寧さや親切さというものはこの作品に対する好印象の大部分をなしている。

仲間が集まって以降は合宿したりライブしたりと、順当に物語が展開してゆくのだが、1クールという事もありやや詰め込みすぎなのではないかと感じた。
ペースそのものが急に早くなったというわけではない、物語の展開がやや早すぎるというか、問題の解決にややと唐突さを感じてしまい、それがやや詰め込みすぎという印象をもたらしたのだろうか。
これは多少説明を要する。
じつをいうと、はなから2クールの作品だと思い込んでいたのに、十話を見終ったあたりで1クールの作品であると知り、これどうするの?、と思ったこと。
この時点で、いわば、この作品に対するひとつの先入観が形成されてしまったようだ。
2クールだと思って山場はまだ先と考えながら視聴していたのに、実は1クールと知り、えっ、となる。
こういったことによってこうむった精神的影響は、作品に対する評価にもどうしても影響を及ぼす。
やや詰め込みすぎなんじゃね、と感じたのは、そういった個人的事情にも大きく左右されているかもしれないということ。
従って、自分がこの作品に対してやや詰め込みすぎと感じたというのは、そういったバイアスがかかった上での感想であり、話半分ぐらいに聞いてくれないと困る、というのがある。

が、しかし、逆のことを言うようだが、そういったバイアスがかかってない状態で視聴したとしても、やや詰め込みすぎと感じた可能性は高いと思う。
問題は、物語のペースにもなく、物語の展開が急というのでもない。
先にも書いたとおりペースそのものは、やや早くなったかなという程度であり、物語の展開そのものも自然というか、そこまで急展開と言うほどではない。
ではなにが問題かというと、問題の解決の仕方、もうそろそろ1クール終わるから問題にケリをつけとかなきゃ感というのがあり、そこがやや気になった。
小鳥のアレにしろなんにしろもう少し引っ張って丁寧に解決してもいいんじゃないの?、と感じてしまったというのがある。

とくに、主人公が終盤トラブルをおこし、落ち込んで、仲間内もギスギスして仲のよい友達ともどこかギクシャクするという展開は、そうさっくり解決してしまっていいのかなと思える「重さ」を感じた。
もう少し引っ張ってねちねちやってもいいんじゃない?、っていう。
なにか、後もうすぐで最終回だからここらで無理にでもけりをつけとかなきゃ、みたいな感じが、画面越しにひしひしと伝わってきてしまい、おかげでやや興ざめな感があった。

とまあ、こんな感じで、手放しで面白いと感じたというわけではないが、総体としてはそこそこ楽しむ事ができたし、学生の青春をアイドルという題材を通してごくごくまっとうに描いたまっすぐな作風は、さわやかで見ていて気持ちがよかった。
とりあえず、2期も見てみるつもり。

 



批評とは何かというストレートなタイトル、表題どおりに、著者にとって批評とは何かという事が、手を変え品を変えテーマを変え題材を変え、執拗に繰り返し語られる。
それは半分自己言及のようで、脳内対話を出力したと言う趣がある、けれど、意外にも読みやすく、あまり突っかかる事もなくすらすらと読み進める事ができた。
これは別に、著者がなるたけ平易に語ろうとした結果と言うだけではなく、むしろそういった部分よりも、たった一つのテーマに対して執拗にかじりつくように、徹底的に語り明かした結果もたらされたものだろう。
この本は結局、たった一つのことしか語っていないし、そのたった一つのことしか著者は興味がないかのようにさえ見える。
批評とは何か、という問いを平易にしかも例をまじえてわかりやすく、かといってレベルを落とさず、そして自分にとって批評とは何かという、やや私的なことさえまじえて、作者は語り続ける。
半自伝と言うほどではないとしても、四分の一自伝くらいにはなっており、作者という人間が、よい意味で前面にでてきている。
だからこれは、はっきり言ってしまえば作者による「批評」の俺定義であり、それ以上でもないしそれ以下でもないと、言えると思う。
これは別にdisってるわけではなくて、結局批評というモノはそうならざるをえないものだし、そういうモノなのだという、作者自身の今までの人生で掴んだ結論めいたものなのだろう。
半ば自伝、半ばエッセイ、そして、題材を変えながらオレにとって批評とは何か、それだけを語り続ける本であり、高度な内容にもかかわらず、その一貫性は読みやすさに多大な貢献をなしており、さくさく読むことができる、これは驚くべき事なのかもしれない。



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大友宗麟というと、大砲スキルを持った九州のハゲというイメージくらいしかないのではないか。
戦国時代における武将としてはややマイナーだし、そもそも名前すら知らないという人もいると思う。
これは戦国時代におけるキリシタン大名大友宗麟の生涯を、キリシタン作家が書いた歴史小説である。
で、これは当然のことながら、「宗教」という要素が、どうしたって目につく作品である。
キリシタンがキリシタンを書いたのだから当たり前といえば当たり前だが、そういった歴史小説らしからぬ宗教問答が挟まれているのが、この作品の独自の魅力といえば言えるのかもしれない。

普通歴史小説と言うと、政治・経済・軍事といった天下国家を直接動かすような話題が中心になりがちだ。
なにしろ「歴史」小説なのだから当たり前といえば当たり前で、個人の心を救済する「宗教」が中心になったら、それはもはや別の小説だとつっこまれてしまう可能性が高い。
この作品は、宗教という題材を適度に扱いながらもきちんと歴史小説しているのが、なかなかよいバランスだと思う。
それというのも、この大友宗麟という男の宗教に対する態度が、間接的ではあるにしろ、国の対内政策対外政策に反映してしまうからだろう。
つまり、一個人の内面の問題が、外面の問題として反映するという構造になっており、作者が上手いというよりも、大友宗麟という題材を扱った以上、必然的にそうならざるを得ないのだと思われる。
その上、作者はガチのキリシタンなわけで、題材と作者の相性はぴったりだ。

作者は宗麟を迷う人として描いている。
よく言えばそれは、内面の問題に対して誠実だからということが出来る、しかし、悪く言えば、ただのめんどくさい男である。
おそらくは、戦国武将として生まれたのがよくなかったのかもしれない、作者は、宗麟を不安定な武将として描いている。
ある時期においては頼もしく頼りになるお屋形だが、意気が挫けるととたんに弱気になりしぼんでしまう、そういった心の弱さが描かれており、一人の戦国武将としてよりも、ひとりの弱い人間として描くのが作者の狙いだったかのようにさえ思える。
そんな宗麟の心を震わせるのが宗教である、中でもキリスト教である。
その、宗麟のキリスト教に対する接近の仕方というのも、生ぬるいというか中途半端というか、劇的な要素があまりないので、いまいち絵にならないきらいがある。
実際、作中で宣教師から「熱くもなく冷たくもない、ただ生ぬるい」(新潮文庫 上 P231)と評されてしまったりする。

そういった宗麟の人としての弱さのようなものが、もしこの小説の主題であるならば、確かにこの作品はその主題をきちんと展開できていると思う。
ただ、それが小説としての面白さや楽しさに直接つながっていたかというと、それは別問題で、きちんと作者の思い描く宗麟像を描けていたのだけろうけれど、それが小説としての面白さに直接寄与していないという残念な感じがある。
特に気になったのが、作中に占める宗教関係の話題の割合で、全体の二割くらいという中途半端さ加減は、不満を感じた。
どうせならもう少し、宗教関係のウエイトを増やして、宣教師との問答もページ数を増やし厚みのあるものにして欲しかった。
もう少し、宗教という要素を暴走させてもよかったんじゃないの?って気がする。
この作品そのものが宗麟と同じく生ぬるい感じで、決して悪くはないけれど、かといってすごくよくもないという微妙な感想になってしまう。
いやだからといって決して、読んで損をしたというわけではないんだけど、期待していたのよりはやや下かなあ…と。
同じ宗麟を扱った小説なら、白石一郎の火炎城のほうがよかった、上だった。
あの作品はこれと違い熱い作品で、終わり方もしゃっきりしていて読後感もよく、よい小説を読んだなという余韻に浸ることができた。
なので、宗麟を読みたいなら白石一郎のほうがお勧めなんだけど………、この作品もこの作品で決して悪くはないのでそこそこお勧めする。
ただ、宗教問答とかに期待すると、あれっこれだけ?ってなるかもなので、あんま過度な期待はしないほうがよいと思う。



タイトルにわざわざルポと銘打たれていることからも分かるように、価値判断や、これからどうすべきかという未来への展望をいったん脇において、アメリカの現状はどうなっているかというただ一点に絞って書かれた本。
新書という事もありページ数はさして多くはない、したがって、一点にのみ絞った書き方は成功だったといえる。
何よりも好ましいのは先に書いたように、良いか悪いかこれからどうすべきかという切迫感が、よい意味でないところだ。
こういった電子書籍や、インターネットと本との関係をかたろうとなると、どうしても切羽詰って額に汗をかきながら力を込めて語るという語り方になりがちだ。
しかし、この本の著者は、ごく冷静にありのままに、額に汗をかくこともなくかといって冷静に突っ放すことなく、ごく淡々と事実を述べ伝える。
さながら、アメリカから届けられた手紙を読むような、不思議な読感がある。

出版は2010年ということで古い、従って今アメリカがどうなっているのかはわからないし、この本で書かれた情報は、もしかしたらもう役に立たないのかもしれない。
しかし、アメリカにおける出版事情や、独自のお国柄を知る上ではまだまだ役に立つのではないだろうか。
といっても、比較文化論を語ったり、日本とアメリカの文化の違いを考えたりということはなく、読者に対して、素の情報を提供するというスタンスが貫かれているため、そういった点に深みを感じず、不満に思う読者もいるかもしれない。
しかし自分としては、むしろそういった点が好ましく、押し付けがましくもなく過度に深刻でもないのがよかった。
額に汗して語るような「電子書籍論」に辟易している人は、この本をお勧めしたい。
いい意味で、そっけない本である。



引用

P43
 日本の出版社は、さしずめレンガでできた家。一つひとつの土台がしっかりしていて、不況という嵐にも強いけれど、変化できない。レンガががっちりお互いに食い込んでいるので、少し穴をあけて風通しをよくしようにもなかなかできない。かなりあちこち傷んでいるが、外からは中がどうなっているのかよくわからない。電子書籍という新しい部門が必要になっても、すぐに建て増しできない。
 一方、アメリカの出版社はというと、藁でも木でもなく、ゼリーやシリコンのような材質でできている家、という気がする。ぶよぶよと形を変えながら、必要になったらトカゲの尻尾切りみたいに、すぐにリストラして身軽になったり、新しい分野に進出したいとなれば、他の会社を買収したりして、器用に姿を変えながら成長していく。

P122-P123
しかし、彼は「本」というメディアに託されたドロドロの過去の歴史が、iPadというピカピカのガジェットで洗浄できると思い込んでいるようである。



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関連書籍
だれが「本」を殺すのか〈上〉 (新潮文庫)
だれが「本」を殺すのか〈下〉 (新潮文庫)
増補 日本語が亡びるとき: 英語の世紀の中で (ちくま文庫)

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