カラスっぽいブログ

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大友宗麟というと、大砲スキルを持った九州のハゲというイメージくらいしかないのではないか。
戦国時代における武将としてはややマイナーだし、そもそも名前すら知らないという人もいると思う。
これは戦国時代におけるキリシタン大名大友宗麟の生涯を、キリシタン作家が書いた歴史小説である。
で、これは当然のことながら、「宗教」という要素が、どうしたって目につく作品である。
キリシタンがキリシタンを書いたのだから当たり前といえば当たり前だが、そういった歴史小説らしからぬ宗教問答が挟まれているのが、この作品の独自の魅力といえば言えるのかもしれない。

普通歴史小説と言うと、政治・経済・軍事といった天下国家を直接動かすような話題が中心になりがちだ。
なにしろ「歴史」小説なのだから当たり前といえば当たり前で、個人の心を救済する「宗教」が中心になったら、それはもはや別の小説だとつっこまれてしまう可能性が高い。
この作品は、宗教という題材を適度に扱いながらもきちんと歴史小説しているのが、なかなかよいバランスだと思う。
それというのも、この大友宗麟という男の宗教に対する態度が、間接的ではあるにしろ、国の対内政策対外政策に反映してしまうからだろう。
つまり、一個人の内面の問題が、外面の問題として反映するという構造になっており、作者が上手いというよりも、大友宗麟という題材を扱った以上、必然的にそうならざるを得ないのだと思われる。
その上、作者はガチのキリシタンなわけで、題材と作者の相性はぴったりだ。

作者は宗麟を迷う人として描いている。
よく言えばそれは、内面の問題に対して誠実だからということが出来る、しかし、悪く言えば、ただのめんどくさい男である。
おそらくは、戦国武将として生まれたのがよくなかったのかもしれない、作者は、宗麟を不安定な武将として描いている。
ある時期においては頼もしく頼りになるお屋形だが、意気が挫けるととたんに弱気になりしぼんでしまう、そういった心の弱さが描かれており、一人の戦国武将としてよりも、ひとりの弱い人間として描くのが作者の狙いだったかのようにさえ思える。
そんな宗麟の心を震わせるのが宗教である、中でもキリスト教である。
その、宗麟のキリスト教に対する接近の仕方というのも、生ぬるいというか中途半端というか、劇的な要素があまりないので、いまいち絵にならないきらいがある。
実際、作中で宣教師から「熱くもなく冷たくもない、ただ生ぬるい」(新潮文庫 上 P231)と評されてしまったりする。

そういった宗麟の人としての弱さのようなものが、もしこの小説の主題であるならば、確かにこの作品はその主題をきちんと展開できていると思う。
ただ、それが小説としての面白さや楽しさに直接つながっていたかというと、それは別問題で、きちんと作者の思い描く宗麟像を描けていたのだけろうけれど、それが小説としての面白さに直接寄与していないという残念な感じがある。
特に気になったのが、作中に占める宗教関係の話題の割合で、全体の二割くらいという中途半端さ加減は、不満を感じた。
どうせならもう少し、宗教関係のウエイトを増やして、宣教師との問答もページ数を増やし厚みのあるものにして欲しかった。
もう少し、宗教という要素を暴走させてもよかったんじゃないの?って気がする。
この作品そのものが宗麟と同じく生ぬるい感じで、決して悪くはないけれど、かといってすごくよくもないという微妙な感想になってしまう。
いやだからといって決して、読んで損をしたというわけではないんだけど、期待していたのよりはやや下かなあ…と。
同じ宗麟を扱った小説なら、白石一郎の火炎城のほうがよかった、上だった。
あの作品はこれと違い熱い作品で、終わり方もしゃっきりしていて読後感もよく、よい小説を読んだなという余韻に浸ることができた。
なので、宗麟を読みたいなら白石一郎のほうがお勧めなんだけど………、この作品もこの作品で決して悪くはないのでそこそこお勧めする。
ただ、宗教問答とかに期待すると、あれっこれだけ?ってなるかもなので、あんま過度な期待はしないほうがよいと思う。

タイトルにわざわざルポと銘打たれていることからも分かるように、価値判断や、これからどうすべきかという未来への展望をいったん脇において、アメリカの現状はどうなっているかというただ一点に絞って書かれた本。
新書という事もありページ数はさして多くはない、したがって、一点にのみ絞った書き方は成功だったといえる。
何よりも好ましいのは先に書いたように、良いか悪いかこれからどうすべきかという切迫感が、よい意味でないところだ。
こういった電子書籍や、インターネットと本との関係をかたろうとなると、どうしても切羽詰って額に汗をかきながら力を込めて語るという語り方になりがちだ。
しかし、この本の著者は、ごく冷静にありのままに、額に汗をかくこともなくかといって冷静に突っ放すことなく、ごく淡々と事実を述べ伝える。
さながら、アメリカから届けられた手紙を読むような、不思議な読感がある。

出版は2010年ということで古い、従って今アメリカがどうなっているのかはわからないし、この本で書かれた情報は、もしかしたらもう役に立たないのかもしれない。
しかし、アメリカにおける出版事情や、独自のお国柄を知る上ではまだまだ役に立つのではないだろうか。
といっても、比較文化論を語ったり、日本とアメリカの文化の違いを考えたりということはなく、読者に対して、素の情報を提供するというスタンスが貫かれているため、そういった点に深みを感じず、不満に思う読者もいるかもしれない。
しかし自分としては、むしろそういった点が好ましく、押し付けがましくもなく過度に深刻でもないのがよかった。
額に汗して語るような「電子書籍論」に辟易している人は、この本をお勧めしたい。
いい意味で、そっけない本である。



引用

P43
 日本の出版社は、さしずめレンガでできた家。一つひとつの土台がしっかりしていて、不況という嵐にも強いけれど、変化できない。レンガががっちりお互いに食い込んでいるので、少し穴をあけて風通しをよくしようにもなかなかできない。かなりあちこち傷んでいるが、外からは中がどうなっているのかよくわからない。電子書籍という新しい部門が必要になっても、すぐに建て増しできない。
 一方、アメリカの出版社はというと、藁でも木でもなく、ゼリーやシリコンのような材質でできている家、という気がする。ぶよぶよと形を変えながら、必要になったらトカゲの尻尾切りみたいに、すぐにリストラして身軽になったり、新しい分野に進出したいとなれば、他の会社を買収したりして、器用に姿を変えながら成長していく。

P122-P123
しかし、彼は「本」というメディアに託されたドロドロの過去の歴史が、iPadというピカピカのガジェットで洗浄できると思い込んでいるようである。

教養という言葉を冠した本は数多く、教養を語った本もまた数多いだろう。
しかし、それらの本で語られているような「教養」は「教養」なんかじゃねぇと言う話。
これは別に著者が独特の俺定義を作り出しているとかそういう事ではなく、長い歴史の中で変質し捻じ曲がり、色々な夾雑物がつき、わかりにくくなった教養の姿を、もう一度洗いなおそうという試みだ。
「教養」の真の姿などというと大袈裟だが、「教養」の持つ真の意義はどこにあるかを著者は懸命に解き明かす。
著者に言わせれば「教養」とはとても小さなもので、それが大きく見えるのは、文学、人格、哲学などの、あかの他人が勝手に抱きついているからに過ぎないという。
そういったあかの他人たちを引き離し、あらわれた「教養」の真の姿はとても意外で虚をつかれるような姿だった。

その姿を一言でざっくり言ってしまうならば、それは自分らしさという事になる。
この説明は乱暴で著者は賛成しないかもしれないが、読者の一人としては、そういう感想を持った。
教養とは自分らしさである。
この自分らしさとは、個性という言葉とはちがう、少しだけズレがある
そのズレをうまく説明する事はできないが、個性というモノがなかなか直そうと思っても治す事のできないような、キャラにとっての属性のようなものとするなら、自分らしさとは、自分自身で探りながら、自分自身で少しずつ作り出してゆくものという感じだ。
この説明でわかってもらえただろうか。
個性的という言葉はあっても、自分らしさ的に当たる言葉はないという点が、この二つの概念の違いを説明していると思う。

自分らしさとは、一見すると簡単に得る事ができるようなものだが、意外にどうして難しいもので、そもそも自分にとって最もぴったりくる考え方・行動の型は何かという事を考えなければならず、しかも、その考え方・行動の型が自分自身に無理せずピッタリ合うものでなければならない。
これはまさに言うは易し行うは難しであり、おそらくは大部分の人間が、自分らしさを見つける旅の途上にあり、もしかすると、死ぬまで見つけることは出来ないかもしれない。
しかしそれでも、生きる上では、自分らしさを見つけることをやめることは出来ない、そんなものまどろっこしいから探さねぇよというのも、じつは一つの自分らしさだったりする。
自分らしさというのは、自分に身の丈の合った服のようなもので、だぶだふでもいけないし、ぴっちりしているのも息苦しい。
ぴっちりした服を着てこれが自分だ自分らしさだと思うときもあれば、だぶだぶの服を着て、これが自分だと思う時期もあるだろう。
要するに正解はなく、これで終わりというのもなく、採点してくれる人もいない。
何が正解かわからず、自分にとってもっともピッタリな服は何かというのも、一生探し続けなければならない。

だからといってこれは悲観的になる事もない、どうせ永遠に答は見つからないとなれば、逆に気は楽になるし無理をしようという気もなくなる。
自分らしさとは何かとは、色々な人やモノから教えられ、それは当然間違っていることもあれば正しい事もあり、そして正しいか間違っているかを判断するのも自分ともなれば、カオスの二乗という感じでどうにもこうにも仕様がないが、まあそういうもんかなとも思う。
生き続ける過程そのものが自分らしさを探る旅ならば、これは永遠に過程のままで完成を見ることはなく、自分らしさとは何かを分からずに、あるいは盛大に勘違いしたまま死んでゆく人もいるだろう、けれど、もともと正解はないとわかれば気も楽になるというもの。
ならば、慌てず騒がず、ほどほどに自分らしさを探しつつのんびり生きていけばよいのではないか?、まあそんなふうに思ったりするわけで、これが今の自分の結論だったりする。
そしてそれが、今の自分にとっての自分らしさであり、それなりに身の丈にあっているのではないかと思っている。





適切な解説
分裂した世界を統合する能力 清水真木『これが「教養」だ』

本書は、前に感想を書いた同じ著者の『文学の読み方』の応用編とでも言うべき内容なので、出来ればそちらを先に呼んでからこちらを読むことをお勧めする。
この本は確かにゲーム論であり、ドラクエ論でもあるが、前著『文学の読み方』で展開された、物語論あるいはエンタメ論とでもいうべきものを引き継いでおり、前著を読んでからのほうが読みやすいし頭に入りやすいだろうと思われる。






ドラクエが物語であることは間違いがない、しかし、文学と言うと首を捻る人も多かろう。
そもそもに置いてジャンルが違う、小説とゲームだ、一体どこが同じなのか、と。
著者が考える『文学』とは、そういったジャンルを指す名称ではなく、物語のひとつのあり方のようなニュアンスで使われていることが多いため、ここでもしつこく言わせてもらうならば、やはり『文学の読み方』を読んでおいたほうがよい。
といっても、めんどくさいし読みたくないという方もいるだろう、そういった人に説明すると、文学とは錯覚を描くものだというのが、大雑把に言えば著者の主張である。
この場合の錯覚というのは幻想と言い換えてもよいが、この作品はリアルであるという錯覚、あるいは人間が描かれているという錯覚、こういったものこそ文学が与える錯覚である、と。
「文学としての」というのは要するに、ドラクエはプレイヤーに対してどんな錯覚を与えてきたかということであり、ジャンルとしての「文学」にドラクエを取り込もうという事ではない。
その点、タイトルがミスリーディングを誘っているような気がしないでもないが、商業的にはこういった誤解されそうなタイトルのほうがよいという事だろう。

本書は年代順に、ドラクエがどんな変化・進化を辿ってきたかという事を社会の出来事とも絡めながら叙述する。
そしてここでも、『文学の読み方』でも大きく扱われた村上春樹が出てくるが、ドラクエとどんな風に絡むかは、読んでのお楽しみとしたほうがいいだろう。
タイトルに反し以外にまっとうというか常識的な内容で、奇抜なことは書いていないので安心して読み進めることができる。
それは逆に言えば刺激が少ないという事で、正直そこまですごく面白いと感じたわけではないが、決してつまらない本ではないし読む価値があると思う。
これから先、おそらく著者は「錯覚」というキーワードを手に色々な題材に取り組むのだろうが、どんな題材に取り組みのか楽しみだ。

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